
さつま芋が鹿児島へ伝わった諸説はいくつかあるが、1705年・岡児ヶ水(おかちょがみず:現・鹿児島県指宿市山川)の漁師前田利右衛門が琉球から甘藷(さつま芋)の種子芋を本土へ持ち帰り広めた説が有力とされている。
前田利右衛門は、持ち帰った種子芋から甘藷の栽培を始めた。
火山灰や軽石でおおわれ、乾燥しやすく、しかもやせている土地が幸いし甘藷の栽培に見事に成功する。
その後、山川一帯に広まり、やがて鹿児島全土で栽培されるようになった。
1734年・江戸幕府8代将軍徳川吉宗は、西日本で飢饉の際の救荒作物として知られていた甘藷の栽培を青木昆陽へ命じ、小石川薬園(小石川植物園)と下総国千葉郡馬加村(現在の千葉市花見川区幕張)と上総国山辺郡不動堂村(現在の千葉県山辺郡九十九里町)で試作させた。
この結果、享保の大飢饉以降、関東地方や離島においてさつま芋の栽培が普及し、日本中に広まっていくこととなる。
鹿児島では中国から琉球を経て伝わった甘藷のことを「唐藷(カライモ)」といい、鹿児島以外では薩摩から伝わった為「さつま芋」という事もこのことが裏付けている。

前田利右衛門は、岡児ヶ水の農家の長男として生まれ育ったといわれる。
当時この地方は、火山灰や軽石でおおわれており、乾燥しやすく、やせている土地が広がっていたため、農作物はよく育たなかった。
利右衛門がこの土地へ甘藷の種子芋を持ち帰り育てた事により、救荒作物として日本中に広がり、その後の飢饉において多くの人々の命を救うこととなった。
甘藷の栽培を広めた前田利右衛門は、感謝の気持ちを込めて「甘藷翁(カンショオンジョ)」称号で徳光神社に祀られ、甘藷翁前田利右衛門の頌徳碑も建てられた。さらに山川港にはさつま芋上陸地の碑が建っている。
また、鹿児島市の吉野町東菖蒲谷に利右衛門の遺徳碑がある。

1977年に指宿市でさつま揚げおよび蒲鉾の製造販売を目的に、有限会社あきもと(現・株式会社シュウエイ)を設立した秋元次治(現・株式会社シュウエイ代表取締役社長)は、当時より地元市場向けだけではなく関東地方の市場向けにもさつま揚げの販売を始めた。
関東地方で販売するにあたり、鹿児島を代表する食材を使用したさつま揚げの開発へ着手し、その中で『さつま芋』の数種の品種、調理方等を試して試作を繰り返し、鹿児島県で古くから食されている「いもんてんぷら」を参考に拍子切りにした紅さつまを手作りで俵型に握り、成型して揚げた「さつま芋天」を開発した。
さつま芋天は最初に地元指宿で販売を開始し、1978年から関東において販売をはじめる。
ひとつひとつ手作りで作った「さつま芋天」は、低温でじっくり揚げる事でさつま芋の甘みが増し、ホクホクとした食感がさつま揚げの生地と非常に良く合う一品であった。
販売を始めた当初から女性を中心に徐々にさつま芋入りさつま揚げの人気と認知度は高まり、小田口屋を代表する商品となった。
その後さつま芋入りさつま揚げは、ほとんどの同業他社でも開発・製造される事となり、現在では市場での存在感を一層増している。
小田口屋は当社レギュラー商品である俵型の「さつま芋天」を始め、四角くカットした紅さつま芋を使用した「さつま芋ひら天」、紅さつま・紫芋・にんじん芋を使用した「3色さつま」、輪切りのさつま芋を平天の上に乗せた「お月見天」等、薩摩の大地で育まれたさつま芋を使用したさつま揚げを創り続けている。
この度、300年以上の間、薩摩の人々の食を守り続けてきたさつま芋に感謝して、小田口屋は「さつま芋物語~さつま芋づくしさつま揚げ」の販売を始めます。
小田口屋が今日まで開発し、販売してきた「さつま芋入りさつま揚げ」の中から特に評判の良かった商品を詰合せいたしました。
紅さつま芋を使用した元祖「さつま芋天」の他、ムラサキ芋と紅さつま、人参芋を使用した彩の美しい「三色さつま芋天」、しっとりした甘さが人気の「安納芋天」、紅さつまをサイコロ状にカットしてすり身に和えて成型し、 輪切りにした紅さつまを貼り付けた見た目も美しい「お月見天」、木の芽を貼り付けた「さつま芋木の芽天」等、鹿児島県内各地域において栽培されている様々な品種を、嗜好を凝らして仕上げております。
さつま芋はビタミンCや食物繊維、でんぷん等が豊富に含まれており、エネルギー源として適しているといわれています。
その豊富なエネルギー源が、薩摩のみならず日本中の飢饉を救った「サツマイモ物語」と、その「さつま芋」を育て広めた「母なる薩摩の大地」に感謝し、小田口屋はこれからも「さつま芋」を使用したさつま揚げを開発し続けていきます。












